福音とは、神様の御子イエス・キリストに関する良い知らせです。福音は、神様が人間イエス・キリストとしての降誕、イエス・キリストの完全に義なる生涯、罪人のためのイエス・キリストの贖いの死、イエス・キリストの死からの復活、そしてすべての人を支配するイエス・キリストの権威を含む歴史的な出来事の宣言です。福音は、罪を罰する神様の正義を宣言し、イエス様の十字架を通して、罪に対する神様の怒りをなだめる唯一の方法を示し、この良い知らせを信じる人々に、罪の赦し、義の転嫁、神様との和解、永遠のいのちを与えることによって、神様の憐れみを明らかにします。
福音を信じるということは、行いをすることではありません。例えば、福音を信じるということは、罪を悔い改め、イエス様に人生を献身し、イエス様が自分の心に入ってくださるように祈り、イエス様と交わりを持ち、あるいはイエス様の中に安息したり、イエス様を信頼する何か神秘的で曖昧な行いをすることを意味するのではありません。文法的に信じる(~を信じる)には対象(目的語)が必要ですが、その対象(目的語)が何に向かっているかが重要です。 信じることの対象は、何かをするように命令することはできません。例えば、「私は『悔い改め、福音を信じなさい』を信じます!」というのはおかしいです。「悔い改めて信じなさい」という命令は、私たちに福音を指し示すものですが、残念なことに、多くの人が悔い改めと信じることを区別せずに、それらを一つにまとめるためにこの命令を使用しています。一方、信じることの対象は常に平叙文(宣言など)でなければなりません。福音の内容は平叙文なので、「私は福音を信じます」という表現のように、福音が信じることの対象となることができます。平叙文を信じるということは、その平叙文の内容が真実であると確信することを意味します。例えば、福音を信じるということは、アブラハムとサラが神様が約束の言葉として下さった平叙文が真実であることを確信したように(ローマ4:21-22、ヘブル11:11)、信じることは福音の内容が真実であることを確信することを意味します。このことから、福音を信じるということは、行いではなく、神様がイエス様を通して成就されたことが真実であるという心の確信であることを理解することができます。
使徒たちもまた、信じるということは、平叙文の内容が真実であると確信することだと理解していた。例えば、使徒ヨハネは信じることを次のように説明しました。「わたしたちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しは更にまさっています。神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです。神の子を信じる人は、自分の内にこの証しがあり、神を信じない人は、神が御子についてなさった証しを信じていないため、神を偽り者にしてしまっています。」(1ヨハネ5:9-10。また、1テサロニケ2:13、2テサロニケ1:7-10、2:10-14では、福音に従順することが使徒たちの証しを信じることに相当します)。神様の証しを受け入れることは人の証しを受け入れることと同じですが、神の証しはより権威があり、その証しを受け入れると永遠のいのちを得ることになります(1ヨハネ5:11-13)。神様の御子に対する神様の証しを信じる人は誰でも、自分の内にその証しを真実なものとして受け入れたということです(つまり、その証しによって説得されたということです)。その証しを真実として受け入れない人は、神様を偽り者にしてしまったのです。また、同じように、「この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる」(ヨハネ3:32-33)、そしてこの節のすぐ後に「御子を信じる人は永遠の命を得ている」(ヨハネ3:36a)と言われます。ヨハネによる福音書では、永遠のいのちを得るためにイエス様を信じるということは、イエス様に対する証し、つまり、イエス様が世界の救い主である神様の御子キリストであることを真実として確信することを意味します(ヨハネ20:29-31、ヨハネ4:42、第1ヨハネ4:14)。これを裏付けるように、聖書で「信じること」(最もよく訳されるのは「信仰」)を定義する唯一の節は、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と書かれています(ヘブル11:1)。この定義を福音に適用すると、イエス・キリストの十字架と復活を直接見た人は、私たちの世代には誰もいませんが、新約聖書に書かれている使徒たちの目撃談が真実であると信じるとき、私たちはイエス様の言葉、すなわち「見ないのに信じる人は、幸いである」という言葉を文字通り成就し、「イエスの名により命」を得たという確信を持つことができます(ヨハネ20:28-31、第1ヨハネ5:13)。
福音の客観的な事実を信じることは、喜びと確信をもたらします。多くの人が福音の重要な事実を理解していますが、信じることに対する正しい理解がないため、実際に福音を信じていません。多くの人は、イエス様を信頼し、イエス様との交わりを持つようなことを信じることと混ぜることで、福音の恩恵を得ることができると考えています。言い換えれば、このような人は、イエス様を信頼し、イエス様との交わりを持つことが、救いをもたらす信仰の要素だと考えています。しかし、そうではありません。むしろ、それらは信じることを無効にし、狡猾な形で独善と神秘主義を導入します。人々は独善と神秘主義を実践しているため、本当の確信がなく、自分が持っていると思っている確信は妄想に過ぎません。 事実、誰も福音の恩恵を獲得したり、福音が契約書のように取引を成立させることはできません。イエス様を信頼したり、イエス様の中に安息したり、イエス様に人生を献身することで神様に賄賂を贈ることはできません。むしろ、神様はご自分の憐れみと恵みに従って、罪人にご自分の贈り物と賜物を与えてくださるのですが、福音を信じることによって、神様が私たちのために成し遂げてくださったことを悟るだけです(第二コリント4:3-6、コロサイ1:5-6、イザヤ43:10-12)。皆さん、自分の行いやいわゆる「信仰生活」を信じるのではなく、福音の事実をそのまま信じ、その福音が私たちの喜びと確信となるようにしましょう。