Gospel Guidebook: Getting and Keeping It Right  한국어    日本語





救われるためにはどうすべきでしょうか。

Written by John Robbins (presumably)
Translated by Robert P. Terry
Republished from https://www.trinityfoundation.org/new_article.php?id=11

救われるためにはどうすべきでしょうか。

「救われるためにはどうすべきでしょうか。」 この質問は、フィリピの看守が使徒パウロとシラスに尋ねた質問です。パウロとシラスは福音で答えました: 「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」 (使徒 16:30, 31)。福音はあくまでも神様の恵みであり、とてもシンプルなものですが、多くの人が福音につまずく理由は、福音が自分自身で何かをして救いを得ようとする私たちの本能に逆らうものだからです。むしろ福音は良い知らせです。イエス様がすべてを成し遂げられたからです。自分自身を信頼するのではなく、イエス様に向き合ってイエス様を信じなければなりません。イエス様は完全で罪のない神様の御子であり、ご自分の民が神様と永遠に和解できるように、十字架の上で彼らが罪のゆえに受けるべき罰と神様の怒りを受けてくださいました。 イエス様が生まれる数百年前に、旧約聖書では、イエス様がご自分の民の罪を贖う犠牲のいけにえとして捧げられることを予言しました。イエス様は贖いのいけにえを通して、イエス様を信じるすべての人に永遠のいのちを与えてくださいました。次の内容は,人間の状態と,イエス様が成し遂げられたことについての聖書の内容です:

人は何から救われなければなりませんか?

(1) 私たちの罪のゆえに、当然受けるべき神様の怒り。

不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。 (ローマ 1:18)

御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。 (ヨハネ 3:36)

更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。 (テサロニケ第一 1:10)

(2) 私たちの罪がもたらす結果:

(A) 死

主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」 (創世記 2:16, 17)

このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです...こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです...罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。 (ローマ 5:12, 21; 6:23)

だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」 (ヨハネ 8:24)

(B) 有罪の判決

神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである (ヨハネ 3:17-20)

この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです...そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。 (ローマ 5:16, 18)

ローマの信徒への手紙とエフェソの信徒への手紙の重要な御言葉を聞いてください:

まず、罪の中にいる私たちみんなの状態についての真実です:

次のように書いてあるとおりです。

「正しい者はいない。一人もいない。

悟る者もなく、

神を探し求める者もいない。

皆迷い、

だれもかれも役に立たない者となった。

善を行う者はいない。ただの一人もいない。

彼らののどは開いた墓のようであり、

彼らは舌で人を欺き、

その唇には蝮の毒がある。

口は、呪いと苦味で満ち、

足は血を流すのに速く、

その道には破壊と悲惨がある。

彼らは平和の道を知らない。

彼らの目には神への畏れがない。」

さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。 (ローマ 3:10-20)

さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。 (エフェソ 2:1-3)

(3) そして今、良い知らせ、つまり福音は、神様がキリストにおいてご自分の民のために成し遂げられたことを私たちに示しています。

ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。 (ローマ 3:21-31)

しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。 (エフェソ 2:4-10)

イエス・キリストは死んでから三日後に死からよみがえり、ご自分の民のために死に打ち勝ち、信者たちを教え、慰めた後、天に昇り、父なる神様の御座に座られました。

どうすればいいのでしょうか?聖書に書かれていることを信じてください ─ あなたは罪のために死と神の怒りを受けて当然の罪人です。イエス様についての聖書の御言葉と、イエス様が成し遂げられたことを信じてください。イエス様は、神様の独り子であり、罪のない完全な人生を送った人として受肉された神様です。イエス様は十字架につけられ、ご自分の民の罪を背負って死なれ、三日後によみがえられました。

罪と何のかかわりもない方[キリスト]を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。 (コリント第二 5:21)

兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。 (コリント第一 15:1-8)

これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。 (ヨハネ20:31)

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 (요한 3:16)