この文書では、人がどのようにして永遠の命を得るのかについて説明します。また、キリスト教会でよく見られる誤解についても説明します。
まず、ヨハネによる福音書20:30-31について考えてみましょう。「30それで,イエスは弟子たちの前でほかにもたくさんのしるしを行なったが,それはこの書には書かれていない。 31しかし,これらの事が書かれたのは,あなた方が,イエスが神の子キリストだということを信じるため,また,信じることによって彼の名において命を得るためである。」
この節では、ヨハネがヨハネによる福音書を書いた目的を説明しています。その目的は、人々が命(すなわち、永遠の命)を得る方法を教えることです。ヨハネによる福音書は、聖書の中で唯一、特に伝道の目的として書かれた本です。私たちがどのように永遠の命を得るかについて言えば、聖書の他の聖句はヨハネによる福音書を通して解釈されなければなりません。
最初の例として、ヨハネによる福音書3:14-15を見てみましょう。「14ちょうどモーセが荒野で蛇を挙げたように,人の子も挙げられなければならない。 15それは,彼を信じる者がみな滅びることなく,永遠の命を持つためだ。」
ヨハネ3:14-15から、イエス様を信じることは、荒れ野で棒に上げた蛇を見るようなものだと推論することができます。棒に上げた蛇を一回見ることだけで救われたように、イエス様を信じる一瞬で、永遠の命の贈り物を得ることができるのです。永遠の命は贈り物であり(ローマ6:23等)、永遠の命とは死ぬことができないことを意味します(ヨハネ6:47-51)。
続行する前に、「信じる」とはどういうことかを説明する必要があります。「信じること」は、特別な宗教的意味を持つものではありません。「信じること」は生涯に渡るものではありません。「信じること」は、「忠誠を尽くすこと」や「献身すること」を意味しません。キリスト教会には、「信じる」という平易な意味を深い宗教的な意味に変えようとする行い主義者が少なくないです。行い主義に陥らないように、十分に注意しなければなりません。「忠誠を尽くすこと」や「献身すること」は、永遠の命を得るための方法ではありません。
聖書は、「信じる」とは単に神様のみ言葉を真実として受け入れることだと明確に教えています。1ヨハネ5:9-11を考えてみましょう。「9人の証言を受け入れるとしても,神の証言のほうが偉大です。その方がご自分のみ子に関して証言されたこと,それが神の証言だからです。 10神のみ子を信じる者は自分の内にこの証言を持っています。神を信じない者は,その方を偽り者としています。神がご自分のみ子に関して与えられた証言を信じなかったからです。 11その証言とは,神がわたしたちに永遠の命を与えられたこと,そして,この命がそのみ子の内にあるということです。」神様のあかしを受け入れることは、人間のあかしを受け入れるのと同じことです。ただ、神様のあかしの方がはるかに信頼すべきものです。9節と10節を比較すると、あかしを受け入れることは、あかしを信じることと同じであることがわかります。次はヨハネ3:32-33を読みましょう。「32その方は自分が見聞きしたことを証言されるが,だれもその証言を受け入れない。 33その証言を受け入れた者は,神が真実な方だということに自分の証印を押したのだ。」ここで、神様のあかしを受け入れるということは、そのあかしを真実として受け入れるということです。また、ヨハネ12:46-48を考えてみましょう。「46わたしは光として世に来ている。わたしを信じる者が闇の中にとどまらないようにするためだ。 47だれかがわたしの言うことに耳を傾けたのに信じなくても,わたしはその者を裁かない。わたしは世を裁くためではなく,世を救うために来たからだ。 48わたしを拒み,わたしの言うことを受け入れない者には,その者を裁く方がおられる。わたしの話したその言葉が,終わりの日に彼を裁くだろう。」48節では、イエスを拒むということは、イエス様のみ言葉を受け入れないことを意味をします。「信じること」は、受動的な行動です。それは単に、み言葉を真実として受け入れることを意味します。これに照らして、イエス様の永遠の命の言葉を真実として受け入れていますか?それとも、自分の信仰生活に信頼を置き、イエス様を嘘つき呼ばわりしています?
さて、ヨハネによる福音書から、「救い」と「永遠の命を受けること」に関する箇所をもう少し見てみましょう。次の例として、ヨハネ3:18を考えてみましょう。「18彼を信じる者は裁かれない。彼を信じない者はすでに裁かれている。神のひとり子の名を信じたことのないからだ。」(「信じたことのない」という修正訳は、原文ギリシャ語で現在完了形が使われていることに基づいている修正です。現在完了形は、英語の聖書で 「has/have not believed 」と正しく訳されている。例えば、英語の欽定訳聖書では、「he hath not believed」として、ニュー・インターナショナル改訳では、「they have not believed」として、または、ニュー・アメリカン・スタンダード改訳では、「he has not believed」として翻訳されています。その人気のある3つの英語の聖書は、いずれも現在完了形を使っています。)
ヨハネによる福音書3:18には、「未信者」とは、神様のひとり子を信じたことのない者と定義されていることに注目してください。重要なのは、現在完了形が使われていることです。現在完了形は、「未信者」とは、今まで一度も信じたことのない人であることを伝えている。したがって、「信じたことのない」人は「すでにさばかれている」。同時に一生に一度でも「信じたことのある」人は「さばかれない」。
「信じたことがあること」と同じように、「新しく生まれること」も一生に一度のことです。実際に「信じたことがある」ということは、まさに「新しく生まれる」ということなのです。ヨハネ1:12によれば、「新しく生まれる」というのは、人が信じる瞬間のことを指している。言い換えれば、「信じたことがある」瞬間に人が新しく生まれるということです。そして、人は一度生まれたら、その生まれは取り消されることができません。同様に、一度永遠の命を得た人は、永遠の命を失うことはありません。このプロセス(過程)は不可逆的です。
新しく生まれた人はすべて、恵みと徳において成長するように努力すべきですが、成長は自動的に行われるものではありません。新約聖書には、未熟で成長しなかった信者の例がたくさんあります。例えば、コリントの人々の中には、教会で酔っ払っていたり、売春宿に行ったり、他人を愛さなかったりした人がいました。その結果、神様は彼らを懲らしめ、ある人々は早死にすることになった。しかし、その人々は神様の子であることに変わりはなく、永遠の命を失う危険はなかった(1コリント11:30-32等)。その人々は天国に入るとき、報酬や相続を失う危険があったが、救いは完全に確保されていた(1コリント3:10-15)。
永遠の命を持つことの意味は明らかなはずです。永遠のものは一時的なものではありません(2コリント4:18)。永遠の命は贈り物なので、永遠の命を持つことは私たちの行動によって影響を受けることはありません(ローマ6:23、エペソ2:8-9、2テモテ2:13)。正確には、これは、たとえ信者が悔い改めず、ぶどうの木にとどまらず、最後まで耐え忍ばられなかったとしても、決して永遠の命を失うことはない、という意味です。確かに、悔い改めない信者は、現世で神様から懲らしめられ、さらに神様の王国での地位と相続の一部を失うかもしれませんが、永遠の命の贈り物を失うことは決してありません。罪からの悔い改めることや最後まで耐え忍ぶこと等は、永遠の命に影響が全然ありません。ヨハネ5:24によれば、信者は永遠の命を持ち、裁きを受けることはなく、すでに死から命へと移ったのです。これは、信者はどのように生きてきたかにかかわらず、大きな白い御座の裁きで火の池(第二の死)に投げ込まれることはないという意味です(ヨハネの黙示録20:11-15)。
このような結論を裏付ける聖書の聖句をもう少し見てみましょう。ヨハネ4:10-15で、イエス様が井戸のそばでサマリヤの女と話した場面を考えてみましょう。
10イエスは彼女に答えた,「あなたが神の贈り物と,『飲み水をくれないか』と言った者がだれなのかを知っていたなら,あなたは彼に求め,彼はあなたに命の水を与えたことだろう」。11女は彼に言った,「だんな様,あなたはくむ物をお持ちでなく,この井戸は深いのです。それで,あなたはその生きた水をどこから手に入れられるのですか。 12あなたは,わたしたちの父祖ヤコブよりも偉大なのですか。彼はわたしたちにこの井戸を与え,子供や牛がしたように自らもここから飲んだのです」。13イエスは彼女に答えた,「この水を飲む者はみな再び渇く。14だが,わたしが与える水を飲む者はだれでも,決して渇くことがない。そして,わたしが与える水はその人の内で,永遠の命へとわき出る水の井戸となるだろう」。15女は彼に言った,「だんな様,わたしにその水を下さい。わたしが渇くことがなく,ここにずっと水をくみに来なくてもよいようにするためです」。
ここでイエス様は、神様からの贈り物を受け取ることは、水を一杯だけ飲むようなものだと教えているのである。飲むことは、ヨハネ6:35に説明されているように、イエス様を信じることです。【35イエスは彼らに言った,「わたしがその命のパンだ。わたしのところに来る者は決して飢えることがなく,わたしを信じる者は決して渇くことがない。】サマリヤの女は、ヨハネ4:15の言葉で、一杯だけ飲めばいいのだと理解したのである。また、イエス様が彼女に条件を付けず、無償で神様の贈り物を提供しようとしたことに注目してください。この場面は、ヨハネの黙示録22:17に次のように書かれていることを思い起こさせる。【22:17御霊も花嫁も共に言った、「きたりませ」。また、聞く者も「きたりませ」と言いなさい。かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい】。罪を悔い改めないことは、神様の贈り物を受け取る妨げにはならないのです。ヨハネ3:18やヨハネ16:9に書かれているように、イエス様を信じないことが唯一の致命的な罪なのです。その理由は、信じない人が永遠の命を受けず、命がないままであるからです。来たるべき裁きがあり、イエス様を信じることが、その裁きから逃れる唯一の方法なのです(ヨハネ5:29、ローマ2:16、黙示録20:15、ヨハネ5:24)。その日、罪を悔い改めることは誰の役にも立たない。大切なのは、永遠の命を得るために、イエス様を信じたことがあるかどうかです。
ヨハネによる福音書でもう一つ重要なことは、ヨハネの言葉の選び方です。ヨハネは「信じる」という動詞を86回利用しましたが、「悔い改める」や「悔い改め」は1回も利用しなかったです。ヨハネは、命を受ける唯一の方法は「信じること」であることを、本当に強調しようとしました。そして、ヨハネによる福音書は、聖書の中で唯一の伝道のために特別に書かれた本であることを忘れてはならないです。「永遠の命を得ること」や「救われること」に関しては、マタイによる福音書、ヘブル人への手紙、ヤコブの手紙、ヨハネの第一の手紙、ヨハネの黙示録など他の聖書を、ヨハネによる福音書を通して解釈する必要があります。特に、ヘブル、ヤコブ、1ヨハネ、黙示録は、すでに信者であると想定される人々に向けて書かれたものです。これらの本の主題は、「未信者の義認」に関して書かれたのではなく、信者が神様を讃え、成長し、報酬と相続を受けるために、「信者の義認」(=聖化)に関して書かれたのです。
例えば、ヨハネの黙示録1:4-6の冒頭の挨拶は、7つの教会にいるすべての人に向けられたものであることに注目してください。ヨハネは、これらの教会の人々が救われていることを前提としています。また同時に、ヨハネの黙示録2-3章などには、「勝利を得る者」の節がたくさん出てきます。「勝利を得る者」は誰でしょうか。黙示録21:7でイエス様が明確に語っているように、「勝利を得る者」は特別な信者なのです。イエス様によれば、「勝利を得る者」は相続と報酬を得ることができ、さらに息子としての特権を受けます。すべての信者は神様の子であり、ある意味では、すべての信者は神様の息子であるが、報酬と相続の文脈では、息子であることは、ローマ8:17に記述されているように、特別な信者のためのキリストとの共同の相続の特権です。多くの人にとって意外なことかもしれませんが、マタイによる福音書、ヘブル人への手紙、ヤコブの手紙、ヨハネの第一の手紙、ヨハネの黙示録など他の新約聖書に書かれている厳しい教えは、すべて律法の要求、弟子の身分、相続や報酬等に関することであり、「信じること」を通するの神様の国に入ることに関することではありません。信者は、背教のような極端なシナリオであっても、決して永遠の命を失う危険はありません。(ヘブル人への手紙を注意深く読めば、そのことが確認できます。)しかし、背教の場合、信者は、報酬を失い、一時的な恥や懲らしめを受けます。信者は、報酬を失わないように、気をつけなければならない。「8わたしたちが,自分たちの成し遂げてきた事柄を失うことなく,豊かな報いを受けられるよう,自分に気を付けなさい」(2 John 8)。
本物でない福音を受け入れる場合の結果は、非常に深刻です。例えば、ヨハネ5:39-47に登場するユダヤ人について考えてみましょう。
39「あなた方は聖書を調べている。自分たちがそれらの内に永遠の命を持っていると考えるからだ。そして,それらこそ,わたしについて証言するものなのだ。 40だが,あなた方は命を得るためにわたしのところに来ようとしない。 41わたしは人々からの栄光を受け入れない。 42だが,あなた方が自分たちの内に神の愛を抱いていないことをわたしは知っている。 43わたしは父の名において来たのに,あなた方はわたしを受け入れない。ほかの人が自分の名によって来るなら,あなた方は彼を受け入れるだろう。 44互いからの栄光を受け入れて,ただ一人の神から来る栄光を求めないあなた方は,どうして信じることができようか。45「わたしがあなた方を父に訴えると思ってはいけない。あなた方を訴えるのは,あなた方が望みを置くモーセだ。 46あなた方がモーセを信じたなら,わたしを信じただろう。彼はわたしについて書いたからだ。 47だが,あなた方が彼の書いたことを信じないのなら,どうしてわたしの言葉を信じるだろうか」。
そのユダヤ人はモーセに望みを置いたことに注目しましょう。具体的に、そのユダヤ人はモーセの教えに従おうとし、モーセの弟子であることを自慢していた(ヨハネ9:28)。しかし、モーセを信じてはいなかったのです。イエス様についても同じことが言える。多くの人がイエス様の教えに熱心で、イエス様の弟子として生活しているが、実際に永遠の命を得るためにイエス様を信じたことはないのです。ヨハネ6:60-64、その例があります。
60それで大勢の弟子たちは,この事を聞いて,こう言った。「わけが分からない。だれがこれを聞いていられようか」。61しかしイエスは,弟子たちがこのことでつぶやいているのを自分の内で知っていて,彼らに言った,「このことがあなた方をつまずかせるのか。 62それなら,自分が以前いた所へ上って行く人の子を見たならどうだろう。 63命を与えるものは霊だ。肉は少しも益にならない。わたしがあなた方に語った言葉は霊であり,命だ。 64だが,あなた方のうちのある者は信じていない」。というのは,イエスは,信じていない者,また自分を売り渡す者を,はじめから知っていたからである。
イエス様の弟子たちの多くは、イエス様の言葉につまずきました。しかし、この多くの弟子たちの中には、イエス様をまだ信じていない者もいたことに注目しましょう。イエス・キリストの弟子になることは確かに立派なことですが、弟子になることで永遠の命を得ることはできません。イエス様の弟子になる前に、イエス様を実際に信じるかどうかを確認する必要があります。悲しいことに、多くの人々が、永遠の命を稼ぐための方法として弟子入りに希望を置いています(ヨハネ5:39)。イエス様を信じることは、命を得る最も簡単で唯一の方法ですが、プライド(高ぶり)と臆病さのために、多くの人々はイエス様を自分の唯一の頼るところとして拒否しています。これは、人々が本来、光より闇を愛するからです(ヨハネ3:19)。
信者と弟子とは違います。信者とは、イエス様を信じたことによって、永遠の命を得た人のことです(ヨハネ6:40)。すべての信者は弟子になるべきですが、弟子になることは永遠の命を得る条件ではありません。信者である弟子は、天国で豊かな報酬を得ることができます(マタイ19:27)。弟子でない信者は、天国では幸せになれますが、そこでの相続は比較的に多くありません(2テモテ2:10-13)。しかし、信者でない弟子は、永遠の命を得ず、イエス様を信じるまで神様の王国に入ることはできません。
イエス様は、私たちは幼な子のように神様の王国を受け入れる必要があると言われました(ルカ18:15-17)。
15人々はまた,彼に触ってもらおうとして,赤子たちを彼のもとに連れて来ていた。しかし,弟子たちはそれを見て,彼らをしかりつけた。 16イエスは彼らを呼び寄せて言った,「幼子たちがわたしのところに来るままにしておきなさい。彼らをとどめてはいけない。神の王国はこのような者たちのものだからだ。 17本当にはっきりとあなた方に告げる。神の王国を幼子のように受け入れない者は,決してその中に入ることはない」。
幼な子は自分では何もできません。幼な子は贈り物を貰うことしかできません。つまり、見返りを与えることはできません。それと同じように、私たちは神の贈り物を受け取る必要があるのです。私たちにお返しができるものがないのですから、悔い改めや弟子入り、忠実な生き方等についての考えで自分を欺いてはいけません。私たちは、イエス・キリストを信じることによって、神様の永遠の命の贈り物を受け取ります。「47本当にはっきりとあなた方に告げる。わたしを信じる者は永遠の命を持っている。」(ヨハネ6:47)。
*聖書の聖句は、すべて著作権フリーの電網新約聖書や口語訳新約聖書から引用しています。
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